リティ、マシュー契約非更新発表

tatsumine2004-12-03

横浜FCは、契約期間の満了に伴い、監督リトバルスキーと来季の契約を更新しないことをお知らせいたします。

19:00ちょうどにマシューのメールの後を追うように、リティの契約非更新が発表されました。

おそらくは本人も続投を望んでいたであろうことは試合後インタビューからも読みとれましたが、スポーツ紙既報のとおり、退任が決定しました。

以前にも書いたとおりうちのチームでリティの存在はとても大きく、チームの象徴でもあり、サポの希望であり、言い方はよくないけど広告塔としても、最大限うちを広報してくれました。

またまた以前にも書いたとおりぼくは決して監督リティを評価していなかったけれども、横浜FCとともに大監督に育ってゆくリティを見たくもありました。

今後は現有戦力の引き留めと監督人選が大きな鍵を握ります。強化担当及び勇気を持ってリティ、マシューを切った奥寺社長をトップにしたクラブはこれからが正念場です。
なによりもリティ就任時に掲げた3カ年計画*1、これはリティあってこその計画だったと思います。
今シーズン始めに立てた4年計画も達成のためにリティがいなくてもいける、そしてリティ・ヨコハマの上を行くチーム作りをしていける、という自信があるのでしょう。
楽しみに後任人事を待ちましょう。

臼井、内田、軍装、スゲ、城をなんとしても引き留めて、サイド攻撃が魅力的なうちの選手たちを生かせる監督を選んでほしいものです。
間違ってもカウンターサッカーやポゼッション至上主義者をつれてこないように。

そして、

横浜FCは、マシュー選手(MF/背番号6)と来季の契約を更新しないことを決定いたしましたので、お知らせいたします。

本日17:44、クラブからのメールで、ホーム最終戦で本人が表明し、監督もなんとか日本でプレーを続けられるようにアピールしていたマシュー・ブーツの契約非更新が発表されました。

マシューは、2003年横浜FCに加入2003年はリーグ戦32試合(先発31試合)、天皇杯3試合に出場しリーグ戦3得点、天皇杯3得点を挙げましたが実にリーグ戦での警告数11、警告2枚による退場2、退場2と第4クールに入って、チーム全体の警告数がヘルまでの間チームの警告数をリードし続けました。
2004年はぐっと落ち着いたマシューは40試合(先発36)試合、天皇杯2試合に出場し、リーグ戦8得点警告数こそ10枚でしたが、退場0と安定していました。

1年を通して10人以下で戦いを強いられた2003年、当初センターバックで起用されたものの不安定さからかすぐにボランチにコンバートされたマシュー。しかしすぐアツくなりラフプレーから黄紙をもらうプレーが目立ちました。
第4クールになってかなり落ち着いてからは中盤での捌きに光るものを見せ、内田、信義の2トップ下、城の1トップの下にはいる第3列目で潰し屋として光るものを見せました。

そして2004年、ドイスボランチを組んだ内田の飛び出しをサポートするダイナモとして、中盤での捌き役として、そしてセットプレーや流れからでもミドルで着実にゴールをねらえるマシューは城と並ぶチーム得点王に輝き、サポーターの選ぶ年間MVPにも選ばれました。

その表彰式のさなか、ショッキングな非更新のニュースは伝えられたわけですが。

ぼくの見る今シーズンのマシューは、チームのボールポゼッションが明確な中ではとても的確な捌き役としての役割をこなし、足許でクリーンなボールを奪取を見せそこからの展開に光るものを見せていましたが、反面ポゼッションを競う場面からうちの持ち味であるサイドからの速攻への切替の局面になると、横への素早い展開にもたつき、横パスやバックパスを出してしまい、速攻に結びつけられない、というシーンが目立つように思いました。

川崎や前半戦の大宮のようにポゼッションサッカーを繰り広げていく上ではいいボランチかもしれませんが、うちのようにサイドを中心に攻撃を組み立てていく上では、マシューは弱点にも成り得る存在だなぁとおもうこともしばしばありました。

しかし、今現在マシューの代わりはいませんし、ゲームでいくらアツくてもピッチを下りたときのマシューの笑顔はすばらしく優しかった。マシュー本人もこれから伸びていける年齢であり、出来ることならいっしょにJ1に行きたかった。

とても残念です。
さてリティ、マシューの去就が決まったことで、今週末以降、来年の編成が大幅に進むことも考えられます。そしてあした12/4は昨日もお知らせした日吉駅統一行動。

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ホーム最終戦のリティ 同じく最終戦のマシュー

リティのファンサイト。大変すばらしいサイトです。→Flankengott

*1:初年度(2003)5位、翌年度(2004)優勝争い、翌々年度(2005)J1昇格